コロナ禍の中で夏休みになっても、多くの人たちが予定を立てられない。移動すること、人に会うことが制限されなければならないほどに、大都市を中心に感染が拡大している。そんな状況で京都の実家に帰省を問い合わせた人が、秒殺で「東京、大変らしいけど、そっちマスクやティッシュは足りてる?」と、ラインに返信が来たことを語っていた。これは「帰ってくるな」という意味だとか・・・。京都の人が皆そうだと思いこむのは偏見になるから気をつけなければならないが、現実にそのようなやり取りがあったということで、夏目漱石の英語の意訳エピソードを思い出した。夏目漱石が ”I love you.” を「月が綺麗ですね」と訳したといわれる話である。真偽を判断する根拠となる資料はないが、英語教師であった漱石が、生徒がこの英文を「我君を愛す」と訳したことに対して、日本人はそんな赤裸々な愛の表現はしないからこう表現すべきだと教えたというエピソードとして多くの人たちに語り継がれているのである。
役所の情報発信や学校における講義などの場合と違って、人と人の会話を含むコミュニケーションにおいて言語が持つ意味は一様ではない。その人の生い立ちや教養や性格や体験が複雑に影響を与えていることを踏まえなければならないのだ。京都の人の話は出身地の文化ではそのように理解するということであり、漱石の話にはその時代の標準的な日本人の感性ではこう理解するはずだという想像力が働いている。
人と人が交わる時、優れたコミュニケーション力を発揮する人は、向き合う相手に対する理解、状況、時、背景にある人間関係を総合的な文脈として理解し、相手の真意に基づいて「意訳」する力がある人だ。「すみません。長い時間お話してしまって・・・」は、「もうそろそろ帰りたい」であり、「文学を勉強なさったんですか」は「もう少し言い方を考え直したほうが・・・」だったり、「立派な人生を歩んでこられたんですね」は「あまり自慢話をしないほうが・・・」だったりで、言葉には思いやりや皮肉や戒めや愛情など、複雑にその人の感情が含まれているものである。言葉を言葉通りに受け取る素直さと同時に、相手の言葉の意味を正しく理解する賢さと、そして何より相手を認め受け入れるための愛を働かせる訓練は、人間力を培うために必要だ。相手の言葉を自分の言葉の理解で怒ったりぬか喜びするのではなく、相手の真意を掴んで理解する意訳力は、コミュニケーションに必要不可欠な「愛の力」だ。人間関係の中で、互いの豊かな関係構築のために「意訳」の力を磨きたいと願う日々である。
「浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める」
「適切な返事をすることは、その人の喜び。時宜にかなったことばは、なんと麗しいことか」
(聖書:箴言)
人のことばは識別力と愛による「意訳」を必要とするが、神のことばである聖書はそのまま信頼して聞き従うことが祝福となる。「みことばのすべては真実です」(聖書:詩篇) 安心して受け取ることができる聖書という基準が与えられていることが感謝の日々である。