ごあいさつ

牧師・教師紹介

私は、穏やかな気候の神奈川県で生まれ、牧師家庭で育ちましたが、社会人であった25歳の時に、人間関係のトラブルを機に信仰に導かれました。
小さい時には、夜空を見上げては、自分の小ささを思い、近くの海辺に立てば人生の大海原を導くものは何かとボンヤリと考えていましたが、それが深刻に自分を悩ませる問題ではありませんした。
しかし、社会人になって、自分の力で解決できない問題にぶつかった時、事に動かされない人生の基準の大切さを痛感したのです。
教会の案内掲示板にキリストのことばで「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ということばが記されています。
この「疲れた人」とは様々な基準に翻弄されて、何が本当なのかが分からなくなってしまっている人です。
数年前の新聞に、あるお母さんの投書が掲載されていました。
「私には9つ離れた、2人の息子がいます。長男が生まれた時、どのように子どもを育てたらいいのか分からず、街の本屋で手に入れた育児書に従って育てました。その育児書によると、当時、流行であったアメリカ方式で、子どもは別室で寝かせ、ミルクは、欲しがっても欲しがらなくても時間にな

ったら飲ませること。またオムツも時間で交換すること・・・。
長男は、大きくなっても私とコミュニケーションが取れませんでした。
9年後に次男が生まれた時も、育児書を買い求めました。ところが、その本には、長男の時とは正反対に、欲しがったらミルクをやればいい、添い寝もいつまででもいいと書かれていました。
その著者の名を見たら、日本では有名な人で、9年前に購入した育児書の著者と同じ人でした」。
人を育てる基準や倫理基準が時代と共に変わっていくとしたなら、多くの人々が迷い、悩むのは当然です。
多様な基準や価値観が混在する現代社会で、私達は何が本物かを判断できず「疲れて」います。そしてその迷いのまま、負い切れない「重荷」に直面しています。
そのような今を生きる私達に、キリストは「わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます」と招いておられるのです。
状況や出来事に動かされない、あなたの人生の基準を見つけませんか。それは、何千年という時を経てもなお人の心に新しく響く聖書の中にあります。
日曜日は午前に礼拝をささげる中で聖書のことばに聞き、夜には若い人々が牧師館に集まり、夕食を共にし、お互いの心の内を自由に語り合います。時には無邪気に冗談を言い合って、ただ疲れた身体を休ませる、そんなこともあります。
あなたが、あなたのままで居られる場所、そしてあなた自身について考える場所を提供します。
いつでも自由に教会へおいで下さい。

牧師 松元潤

牧師・教師の部屋から

  久しぶりに、夕刻の散歩を楽しみました。午後四時を過ぎているというのに空は青く、公園の並木道に連なるポプラが青空に向かってまっすぐに伸びていました。夫婦で何度も空を見上げて深呼吸・・・。子供たちの元気で楽しそうな声が響き渡って晴れやかな気持ちになって、私たちのひと足も勇ましい一歩になりました。
 不要不急の外出を控える生活は不自由にも思えましたが、格好の読書三昧の生活ともなり、お会いしたこともない作者の方々を友のように、励まされた時間でもありました。
 岸見一郎さんのお母様の人生最期の時間の話から
「(ドイツ語のテキストでアルファベットを病床で息子から教わってしばらく後のこと)・・・やがて意識のレベルが低下していって、根気がなくなってくると、今度はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで欲しいと私(岸見氏)に頼みました。いつの日か、私が夢中で読んでいたのを覚えていたのです。そこで、母に読み聞かせをしました。しかし、やがてうとうとし始めて、聞けなくなったので音読は諦めました。母は病に倒れて間もない頃、身体を動かせないので、手鏡で外の景色を一生懸命見ようとしていました。病床でも生きる意欲を失わなかった母を見て、家族は勇気づけられました。その時、人間はどんな状態でも自由でいられることを私は学びました」 (NHK出版新書「今ここを生きる勇気 岸見一郎 著」より抜粋)

世界中が自粛一色の中で不自由な生活を味わってみると、障害や病を不自由とも不幸ともせずに、自由な心を持って生活している人の姿に尊敬を新たにしています。何を持っているか、どんな才能があるかではなくて、境遇や問題に支配されない人の生きる態度そのものが勇気や励ましや慰めを与えることを思わされ、自分自身の生きる姿勢の根幹には何があるのか考えさせられています。
   
「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。」(聖書)

    空だけをひたすら見上げ続けるポプラの樹の姿に見とれて

牧師 松元潤

素敵なローズガーデン

ここはイギリス・・・?  いえいえ、まだまだ海外なんて・・・新型コロナウィルス感染に要注意。

石狩市の某教会員の庭にて、久しぶりに若い人たちと紅茶と庭主手作りのケーキをいただきながら歓談。

マスクとソーシャルディスタンスを心がけて交わりの工夫が求められる今、注意深く、でも美味しい空気いっぱいの日の光の輝く野外の午後を過ごしました。

真っ青な空の下、草花と木々と花々がセンス良く釣り合いが取れて、色とりどりのバラが咲き誇る美しい庭に招いていただいたのです。お手製のケーキが美味しかったのはもちろんだけど、丹念に造られた風景はA級レストランの極上の一品をしのぐ香りが満ちていて、皆で心から楽しみました。

一人の人間なら赤ちゃんが青年になるまでの時間、30数年コツコツと作り上げられた庭に咲く多くのバラたちは、「今日はいい天気だね。ご機嫌いかが? 可愛らしく咲いてね。あなたは私の大切な花よ。」と庭主からたっぷりの愛情を注がれた結果、美しく咲いたものばかり。愛情を注いでも上手に咲けないままの高価なバラも・・・。計算通りには行かない、神様の憐れみと庭主の忍耐尽くしの庭造り。まるで子育てのような花育て。

神様が造られた自然だけど、そこに向き合う人の愛と根気と誠実さも神様のみわざへの協力となって・・・。神様に愛されている庭主ご夫妻の忍耐や人生の笑いや涙もしっかり詰まっている庭で、ティータイムを楽しみながら、今日でなければ味わえないたくさんの感動も共有した時間でした。

人 その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。(聖書)」

            

ある日曜日の礼拝後のひととき

教師 松元ハンナ

教会員T姉妹

T.Tさん(50代 女性)

「ひとりも失われないように」

我が子が迷子になったり、逆に自分自身が、迷子になってしまったという経験はありませんか。
私には、当時2歳未満の娘が、迷子になってしまったという忘れられない経験があります。娘の帽子を買って、会計を終え振り返った時です。たった今、私の足元にいた娘が急にいなくなってしまったのです。わずか数分間の出来事でした。気が動転している私に、店員さんは、「交番に行った方がいいよ。ついこの間も、迷子になった子どもがいたからね」と言ってくれました。不安を胸に交番に飛び込んだ私が、幼い娘の元気な姿を見た時の瞬間を想像することができるでしょうか。母と子の涙の再会でした。

子ども賛美歌の中に、このような歌があります。
「寂しい荒野で、叫ぶ声がする。群れから離れた羊を捜すため。罪のこの世、さまよう羊を連れて行こうイエス様のもとへ」 次いで「迷子の羊は『助けて』と叫ぶ。どこまでも行こう。捜し出すまでは」
子ども賛美歌ではありますが、神様の真理が隠されている内容です。

子どもでも、大人でも、迷いと不安、恐れの中、「助けて」と声を出したい時があります。聖書の中には、神様から離れてしまった人間の姿が、そのようなものとして描かれているのです。不安と苦しみ、悲しみの中を、まるで暗闇の中をさまよって歩いているかのような人間を神様は見つけ出して、本来の居場所である神様のもとへ帰って来るようにと、今日も待っておられます。
迷子の我が子を見つけ出した時の親の気持ち。それ以上に神様の愛は、大きくて深いものです。

「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。」(ルカの福音書15章4~6節)

いなくなった一匹の羊を最後まで探し続ける愛情深い この羊飼いこそ、イエス・キリストの姿なのです。聖書の話を聞いてみたい方、聖書を学んでみたい方、いつでも教会にお問い合わせください。 (T・T)