コロナ禍の中で夏休みになっても、多くの人たちが予定を立てられない。移動すること、人に会うことが制限されなければならないほどに、大都市を中心に感染が拡大している。そんな状況で京都の実家に帰省を問い合わせた人が、秒殺で「東京、大変らしいけど、そっちマスクやティッシュは足りてる?」と、ラインに返信が来たことを語っていた。これは「帰ってくるな」という意味だとか・・・。京都の人が皆そうだと思いこむのは偏見になるから気をつけなければならないが、現実にそのようなやり取りがあったということで、夏目漱石の英語の意訳エピソードを思い出した。夏目漱石が ”I love you.” を「月が綺麗ですね」と訳したといわれる話である。真偽を判断する根拠となる資料はないが、英語教師であった漱石が、生徒がこの英文を「我君を愛す」と訳したことに対して、日本人はそんな赤裸々な愛の表現はしないからこう表現すべきだと教えたというエピソードとして多くの人たちに語り継がれているのである。
教会二階の小さなカフェルームで、夜のひととき、映画「我が道を往く(原題:Going my way)」を楽しんだ。コロナ禍の中、ディスタンスに気を使いながら、私たち夫婦を含めて参加者5人の鑑賞会だった。教会の若いご夫妻のもてなしの賜物による贅沢なティータイムのおまけつきで、しばしクスリと笑い自分の人生を振り返って涙した。還暦を越えている私たちが生まれる以前の古い映画で、初めて見たが、映画の主人公は若い神父である。彼はすっかり年老いた神父の後任神父として、経済再建が急務のつぶれかけた教会に派遣される。本当は主任神父として遣わされたにもかかわらず、老神父の思い込みと誤解に付き合い、暴走結婚した若者たちの良き理解者となり、教会のクレイマー信徒とも付き合う。結局、町の問題児たちを集めて聖歌隊を作り、見事に教会再建が現実味を帯びていくのだが、その矢先に教会堂は火災で燃え落ちるという展開だった。思い込みが強く自己流の正義感を頑固に持つ老人、我儘で自分勝手な教会員、平気で盗みを働く子どもたち、夢はあるけれども熱心だけで後先を考えず行動する若者、献金を見せびらかすように献金袋に入れる事業家、・・・描かれている人間は問題だらけで、どの人も「正しい人」ではなく「罪人」である。私たちの現実と等身大の人間だったにもかかわらず、全編を通じて温かさと希望を感じる心地よい映画だった。最後に老牧師のために用意されていた90歳を越えた母親との対面は、涙なしには見ることができなかった。
不思議なのは、このタイトルである。なぜ「我が道を往く」なのか? 主人公の若い神父が新任地としてこの教会に訪れるところから始まり、また次の赴任地である教会へと去っていくところで終わるのだが、この若い神父の姿勢は一貫している。悩みや問題に耳を傾ける「聞く人」であり、「受け入れる」人であり、「助ける人」なのだが、自意識がない。淡々と、飄々としている。自分の行為に執着せず、人々の賞賛も求めていないし、安定した立場に対するこだわりもない。まさしく、目に見えない神様と自分の関係によって歩んでいる。信仰によって神様の愛の中を本当に生きている人間の姿って、こういうものなのかもしれない。老牧師とさらなる老母の対面さえも後にして、静かに次の赴任地へと向かっていく主人公。本物の「愛」の現れとはいかなるものか、それがメッセージだったのだろうか。神とともに真に歩むキリスト者は、本当はこんな「我が道を往く Going my way」人であるべきなのかもしれない。